アーケンについて

社名アーケン株式会社
住所本社 〒071ー1424 北海道上川郡東川町南町3丁目8番17号
旭川オフィス 〒078-8236 北海道旭川市豊岡9条5丁目4−3
※社員は旭川オフィスにおります。御来客は旭川オフィスへお越しください。
TEL0166-56-3734
FAX0166-56-2890
対応エリア東川町・旭川市周辺・道北
設立2014年
資本金1,300,000円
代表取締役藤原立人
業務内容一般住宅新築、リフォーム、店舗設計施工など

住宅会社の特長を知ることは、後悔しない家づくりへの第一歩です。

皆様が住宅会社を選ぶにあたって、その会社の技術力や知名度、経営規模を確認することも大事ですが、それ以上に、経営者や社員の特徴、スキル、そして人柄や考え方などの根本部分が大事だと思います。ですが多くの住宅会社のホームページでは、そうした根本部分は読み取りにくいと思います。少々長いですが、アーケン株式会社代表・藤原立人の歩みと思いを紹介させていただきます。

第1章:室蘭からエジプトへ。ナイル川のほとりで育まれた原体験

砂漠の国での目覚め

私、藤原立人は1972年、北海道胆振の室蘭で生まれました。父は新日鉄の社員で、幼少期は社宅で家族と平穏に暮らしていましたが大きな転機がありました。幼稚園の卒園間近、5歳の秋に訪れたエジプトへの移住です。

当時、独立行政法人国際協力機構(JICA)が発展途上国への技術支援を行っており、父が鉄に関する技術指導の専門家として派遣されることになったのです。家族全員で首都カイロでの2年間の生活が始まりました。

初めての海外。エジプトの空港に降り立ったのは真夜中の2時でした。翌朝、期待に胸を膨らませて外へ探検に出かけましたが、いきなり40℃を超える熱射病に見舞われ、洗礼を受けました。しかし、エジプトは湿度が低くカラッとしています。夜は放射冷却現象でむしろ肌寒いくらいになるため、慣れてしまえば意外と過ごしやすい地域でした。

ナイル川の中州、異文化が混ざり合う日常

父と母、そして二人の兄と私の5人で暮らした家は、ナイル川の中州にありました。そのエリアは半分が広大な公園で、馬術場や飛び込み台付きの大きなプールがある一方、もう半分は各国の大使館が立ち並ぶ外国人居住区でした。

我が家の右隣にはベネズエラ大使館、左隣にはインド大使館があり、そのすぐ裏にはナイル川が悠々と流れていました。夜になるとベネズエラ大使館の庭で映画がスクリーンに流されていました。

当時のエジプトの住宅はブロック造が主流で、エレベーターは頻繁に故障しました。家の中では土足が基本で、玄関を開けるといきなりダイニングが広がるという、日本とは全く異なる間取りでした。左手にキッチン、奥にリビングがあり、長い廊下の先に3つの居室がある。この「当たり前ではない住環境」を幼少期に体験したことが、私の建築に対する柔軟な視点の出発点かもしれません。

衛生面でも日本とは異なりました。生水は危険なため、必ず煮沸消毒して冷やしてから飲まなければなりません。水が切れた時は、代わりにセブンアップをよく飲んでいました。遊び場はもっぱら近所の公園でしたが、至るところに瓦礫の山があり、そこで化石を拾ったり基地を作ったりして遊びました。親からは「ナイル川の近くは危ないから絶対に行くな」と厳しく言われていたのも、今では良い思い出です。

ピラミッドが通学路にある贅沢

日本人学校の近くには、有名なギザの三大ピラミッドがありました。クフ王、カフラー王、メンカウラー王という紀元前2500年頃のファラオが眠る、世界遺産の巨大建造物です。

スフィンクスの傍には馬やラクダに乗れる場所があり、そこから砂漠を越えてサッカラの階段ピラミッドへ向かうツアーもありました。母が乗馬を好んでいた影響で、私もよく馬に乗りました。数千年前の建造物を日常的に目にしながら過ごした2年間は、私の人格形成に決定的な影響を与えました。

地中海を越えればイタリアやギリシャがすぐそこにある環境。旅行好きの母に連れられ、ドイツ、フランス、オランダ、オーストリア、そしてケニアやスーダンといった国々も巡りました。ケニアでサルに追いかけられた経験や、そこで目にした人々の力強いライフスタイルは、子供心に深く刻まれています。

1981年にエジプトのサダド大統領が暗殺される直前まで、私たちは比較的安全な時期にこの地で過ごしました。この経験から、「外国の文化や生活に抵抗がなくなったこと」、そして「生活環境が激変しても何とかなる」という強固な人生観が育まれました。

第2章:転校生活と、忘れかけていた「大工」の夢

適応力を磨いた小中高時代

小学校2年生の秋に室蘭へ戻りましたが、私の学生生活は常に「移動」と共にありました。中学1年で苫小牧へ。高校は苫小牧東高校に入学しましたが、両親が石狩市花川に自宅を新築したため、家族は石狩へ。私は石狩南高校へと編入しました。

幼稚園から高校まで、同じ学校で入学と卒業を迎えた経験が一度もありません。しかし、この転校の繰り返しが、私の「友人づくり」や「周囲の空気を感じて対応する能力」を飛躍的に発達させてくれました。お客様のご要望を深く理解し、寄り添う現在の仕事のスタイルは、この時期の経験がベースになっています。

また、小中高、大学、そして社会人になってからの2年間、私はずっとサッカーに打ち込んでいました。苫小牧選抜に選ばれたこともあり、チームの中で自分の役割を果たし、一つの目標に向かう連帯感は、家づくりという共同作業にも通ずるものがあります。

大学での「砂漠緑化」研究と、原点回帰

大学は酪農学園大学に進みました。マンガ『銀の匙』のような寮生活、学生生活。そこを選んだのは、受験期に教わった北大農学部の家庭教師の方が農業の面白さを教えてくれたからです。

当時、私は東京農業大学の向後元彦先生の著書『緑の冒険』に深い感銘を受けました。海水でも育つマングローブを植え、微生物を育て、生態系を再生して砂漠を森に変えていくプロジェクトに自分も関わりたいと考え、芝生の研究に没頭しました。また、基礎スキーにも明け暮れ、旭川で「ジャパチーズ」を営む長尾英次さんともこの頃に出会いました。

転機は、スキー資金を稼ぐために行っていた日糧製パンの夜勤バイト中に訪れました。10時間以上の単純作業を繰り返す中で、ふと無意識の中から湧き上がってきたのは、小学校6年生の時に描いた夢でした。

「そうだ、自分は大工さんになりたいんだった」

テレビ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』の賞品でもらった無人島に、ログハウスを建てている大工さんの姿を見て憧れたあの日。レゴに没頭し、キャンプでの創意工夫を愛した少年時代の自分。大学3年の時、私はついにその道へ進む決意を固めたのです。

第3章:木村親方への弟子入り。大工の神髄に触れる

旭川へ、飛び込みの就職活動

最初に向かったのは札幌のログハウスメーカーでした。しかし日曜で休みだったり、場所が分からなかったり……。ようやく辿り着いた「ログハウス21」のカフェで、コーヒーを飲みながら店員さんに「大工になりたい」と直談判しました。その相手が実は社長さんで、「ログハウスをやるなら大工か設計の技術が必要。旭川には腕の良い大工が多い」と助言をいただきました。

そこで紹介されたのが、旭川の株式会社菅原組にいた「木村親方」でした。親方に弟子入りしたい一心で菅原組に入社し、旭川での生活が始まりました。

職人気質の厳しい指導

木村親方は、古き良き職人気質の塊のような人でした。大工の昼食は女将さんが毎日お弁当を作ってくださり、私たちは仕事に没頭できました。当時の私は、すでに3人の子の父となっていましたが、修行生活は決して甘いものではありませんでした。

親方は、手間のかかる墨付けや切り込みといった伝統技術を重んじ、1棟の建物を2年かけて完成させるような、難易度の高い建築を数多く手掛けていました。 「プレカットに頼るな。木の曲がりを目利きし、木の性質を踏まえて建てろ」 「図面から設計者の思いを読み取るために、1本の線も見逃すな。その線が何を意図しているのかを汲み取れ」

当時はその言葉の重みを完全には理解できていませんでしたが、設計者となった今、図面にある1本の線の重要性が痛いほど分かります。その線には、住む人の快適さや構造の強度がすべて込められているからです。

7年間の弟子修行。親方からは「いろんな現場を見ないと技術は進歩しない」と言われていました。最後は1年間の恩返し奉公を経て、8年目に独立。自分で墨付けから棟梁まで務めた2棟の家は、今でも私の誇りです。

第4章:大手・輸入住宅メーカーでの葛藤と学び

「木の城たいせつ」での経験

その後、両親の家を建てた縁もあり「木の城たいせつ」に大工として入社しました。無垢材や自然塗料、布クロスといった素材へのこだわり、壁の中を空気が流れる仕組みなど、多くのことを学びました。

ここで大工として3年務めた後、現場管理、そして営業へと配属が変わりました。大工一筋だった私にとって、営業は未知の世界でしたが、この異動が「家づくりの全体像」を見る機会をくれました。しかし、毎週工場に見込み客を連れて行くというノルマ優先のスタイルに疑問を感じ、4年目で退職を決意しました。

輸入住宅から学んだ「本物の価値」

次に転職したのは、旭川で輸入住宅を得意とする会社でした。大工としての誇りがあったため、当初は営業職に抵抗もありましたが、始めてみるとお客様の要望を直接伺い、カタチにしていくプロセスに大きな喜びを感じました。

特に大工経験があることで、お客様の「ここに収納を作れますか?」といった突拍子もない要望に対しても、その場で構造を判断して即答できる。これがお客様の大きな安心に繋がることを実感しました。

その会社では、北米・北欧・南欧の美しいデザインと、100年の耐久性を目指す「センチュリーハウス」の思想を学びました。坪単価80万円という高価格帯でしたが、一時の流行に左右されない本物の素材、無垢材の価値、そして徹底したプランニングの重要性を学べたことは、私にとって代えがたい財産となりました。

第5章:アーケン起業。誠実で「顔の見える」家づくりを

独立の決意と、理想の追求

多くの経験を積む中で、一つの確信が芽生えました。 「自分なら、もっとお客様の負担を減らし、期待以上の家が建てられるのではないか」

大手住宅会社は、組織の維持費や莫大な広告宣伝費が住宅価格に上乗せされます。しかし、それは家の品質そのものには関係ありません。小さな会社なら、同じクオリティを保ちながら価格を下げられる。また、会社側の「こだわり」を押し付けるのではなく、お客様が「ここはコストを抑えて、その分あっちを豪華にしたい」という柔軟な希望に、職人の視点から応えられるはずだと考えました。

2014年春、東川町で「アーケン」を創業

仲間の力と、お客様を守る仕組み

私には、大工・設計・現場管理・営業のすべてを経験してきた自負があります。そして、私の周りには、切磋琢磨してきた腕利きの職人、才能豊かな建築家、センスの良いコーディネーターなど、信頼できる多くの仲間がいます。

また、起業にあたって最も重視したのは「安心」です。当社のような小さな会社でも、お客様が不安なく家を建てられるよう「住宅完成保証」を導入しました。お客様の資金をハウス・デポ・ジャパンが管理し、工事の進捗に合わせて支払われる仕組みです。これにより、万が一の経営リスクからもお客様を守ることができます。

創業以来、東川町、旭川市、東神楽町を中心に、遠くは浜頓別や中頓別まで、数多くの新築やリフォーム、店舗設計を手掛けてきました。

エジプトでの多様な文化体験、厳しい親方のもとでの大工修行、そして大手・輸入住宅メーカーでの実務。そのすべてが、今の私の糧となっています。お客様の人生に深く関わる「家づくり」という大仕事。これからも、一人ひとりの声に耳を傾け、嘘のない、誠実な住まいを旭川の地でお届けし続けてまいります。

アーケンの現在

評判とご縁を大切に

大変ありがたいことに、アーケン株式会社は、過去に家を建てて頂いたお施主様や、食や移住などの活動を通じて出会った方々などからの紹介もあって、住宅会社としての当社のお仕事は順調に進んでいます。今後もお客様に喜んで頂き、その評判とご縁で住宅会社を続けていきたいと思っています。

土地探しや予算の段階からの打合せも大歓迎

大きなハウスメーカーではありませんので、同時には何十棟も家づくりを行うことはできません。できれば、家を建てたい、と思われた初期の段階ででも、まずはご相談いただければ、どのような家が実現できるか、そして土地探しや予算の面も含めて、大枠の方向性を一緒に考えることができますし、プランニングや施工のスケジュールもゆとりをもって組み立てることができると思います。

架空の家族を想定するモデルハウスはありませんが・・・

お客様のライフスタイルを前提に家を建てる注文住宅を進めておりますので、架空の家族を想定したようなモデルハウスはありません。お客様のご自宅を完成直後にお借りして開催する完成現場見学会や、このホームページの事例記事で当社の住まいづくりは、お客様の要望を元に1棟1棟心を込めてプランニングし、建てているということを感じて頂ければと思っております。

大工経験で既存住宅の問題もわかる!リフォームも得意

新築だけでなく、リフォームも積極的に取り組んでいます。大工出身なので、住宅を見せて頂くと、どこに問題が生じているか、どこを直せば、費用を抑えつつ効果的なリフォームができるかがわかります。また、設計者でもあり、デザイン性に優れた社内外の設計者の力も借りながら、デザイン性に特化したリフォームも可能です。レストランや店舗兼住宅などの改装なども得意にしています。

工法・断熱仕様からお客様と一緒に決めます

住宅工法に関しては、ツーバイフォー工法もできますが、設計の自由度の高い在来工法をメインにしています。住宅の断熱性能は、積雪寒冷地・東川町の厳しい環境も踏まえて、省エネで暖かい住宅を前提にご提案させていただきます。お客様の要望を第1に考える注文住宅なので、断熱仕様・性能面も含めて、お客様とご相談させていただいた上で決めていきます。

東川・美瑛などの移住をサポート

アーケンは近年、東川町への移住を希望される方の家づくり、店舗や宿づくり、そして薪ストーブのある家づくりをたくさん担当させていただいております。ぜひ下のコラム等もお読みいただければ幸いです。

連載コラム